全国各地の青年団の仲間たちによる東日本大震災への支援活動を発信していきます。
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4月29~30日にかけて、岩手県を岩手県青年団体協議会の定期大会への参加、「生きる」の合評会、陸前高田市のいまを見てくることを目的に、東海大学の辻先生と日青協事務局の早川が訪問しました。
まず、29日は岩手県団の定期大会に出席をし、岩手県の青年団員のみなさんにもご執筆をいただいた「生きる」の合評会を行うために、岩手県青少年会館を訪れました。
岩手県団の定期大会では、新しい県団役員の紹介が行われたほか、今年度の岩手県団のスローガン「ひとりの絆をみんなの絆に」のもと、運動方針が議論されました。特に東日本大震災の復興支援活動については、岩手県内の中でも甚大な被害に見舞われた陸前高田市、大槌町への継続的な支援を行っていくことが確認されました。また、岩手県団新会長の高橋蔵さんより「岩手県団がきちんと各事業を行うことが、全国のみなさんからご支援いただいたことへの恩返しになります」と、今年一年の決意を加盟団の団員と共有していました。
午後からは「生きる」第1号の合評会を定期大会の出席者とともに行いました。岩手県団の泉田将治さんをはじめ、今回の「生きる」が発刊されたことについて口々に感謝が述べられました。また、全国各地で「生きる」を活用して、震災の教訓が活かされることを被災地の青年たちは望んでいました。
ここでは「生きる」が果たす役割について、出席者からは他県の状況はもちろん、岩手県内でも被災当時の状況が共有されことが挙げられていました。この冊子にはあの日、青年団の仲間がどうしていたのか、その地域がどのような被害にあったのかが鮮明に記されています。同じ被災地にあっても自分の地域のことしかわからず、当時のことを知りたくとも聞き出すことなんてできないと感じていた被災地の青年たちにとっても、「生きる」がとても重要な意味をもっていることを実感できました。
被災地でもあの日の記憶が語られることは少なくなっているようです。「生きる」が第2号、第3号と継続されることで、1年に一回はこの冊子を読み合って教訓を忘れないようにしたいとの思いを岩手県の青年たちと確認し合うことができました。
その夜、大船渡市に車で移動して宿泊しましたが、津波が襲った地点の信号を右折したところから残っている建物はホテルなどの大きな施設のみです。あの突然真っ暗になった道のことを、生涯忘れることはないと思います。
翌30日は、陸前高田市に移動し、陸前高田市のいまと桜ライン311の活動で植樹された桜を岩手県団の泉田さん、橋詰さんと視察しました。陸前高田市は大船渡市以上にひどい状況で、木造建築のあった土地は更地にされ、正しく何もない町になっています。陸前高田市も沿岸部に残っているものは、大きな鉄筋の建物の外装や形だけの学校、山積みにされて撤去されることのない瓦礫のみでした。また、津波の到達点を境にして住居も残っており、町の中でも被害状況がまったく違うことに驚きました。
昼には桜ライン311のメンバーとして活動する、米崎地区仮設住宅の自治会長さんにお話を伺うことができました。自治会長さんは元青年団員でもあります。陸前高田の中でも商店が復活しつつあること、地域にお金を落としていくためにはボランティアに頼ってばかりはいられないことなど、復興を進めるために被災地が次のステップへ移ろうとしていることを実感できました。
その後、桜の木を確認するため、津波の到達点へ向かいました。塩害を受けた土地にあっても、桜は力強く開花しています。お寺の高台から見たその景色は、テレビでよく見た陸前高田の風景であり、報道陣によって定点観測ポイントの杭が打ち立てられていました。そこから写真を撮ると、植樹された桜がファインダーの中に写り込んでくるのです。この一年の青年団の活動が花開いたのかように思え、胸が熱くなりました。
世間はGWで、被災地にボランティアで入る人もいれば、被災地を観光スポットのように扱って立ち入り禁止区域内で記念撮影をしている人たちもいました。震災から1年が過ぎ、被災地にお金を落とそうとメディアでも盛んに言われています。しかし、それは被災地で節度無い行動をしても良いということではないはずです。被災地支援をするのであれば、あの日を忘れず、そこに住む被災者のことを第一に考えていかなくてはと気持ちを新たにしました。
(日青協 早川麻登)
まず、29日は岩手県団の定期大会に出席をし、岩手県の青年団員のみなさんにもご執筆をいただいた「生きる」の合評会を行うために、岩手県青少年会館を訪れました。
岩手県団の定期大会では、新しい県団役員の紹介が行われたほか、今年度の岩手県団のスローガン「ひとりの絆をみんなの絆に」のもと、運動方針が議論されました。特に東日本大震災の復興支援活動については、岩手県内の中でも甚大な被害に見舞われた陸前高田市、大槌町への継続的な支援を行っていくことが確認されました。また、岩手県団新会長の高橋蔵さんより「岩手県団がきちんと各事業を行うことが、全国のみなさんからご支援いただいたことへの恩返しになります」と、今年一年の決意を加盟団の団員と共有していました。
午後からは「生きる」第1号の合評会を定期大会の出席者とともに行いました。岩手県団の泉田将治さんをはじめ、今回の「生きる」が発刊されたことについて口々に感謝が述べられました。また、全国各地で「生きる」を活用して、震災の教訓が活かされることを被災地の青年たちは望んでいました。
ここでは「生きる」が果たす役割について、出席者からは他県の状況はもちろん、岩手県内でも被災当時の状況が共有されことが挙げられていました。この冊子にはあの日、青年団の仲間がどうしていたのか、その地域がどのような被害にあったのかが鮮明に記されています。同じ被災地にあっても自分の地域のことしかわからず、当時のことを知りたくとも聞き出すことなんてできないと感じていた被災地の青年たちにとっても、「生きる」がとても重要な意味をもっていることを実感できました。
被災地でもあの日の記憶が語られることは少なくなっているようです。「生きる」が第2号、第3号と継続されることで、1年に一回はこの冊子を読み合って教訓を忘れないようにしたいとの思いを岩手県の青年たちと確認し合うことができました。
その夜、大船渡市に車で移動して宿泊しましたが、津波が襲った地点の信号を右折したところから残っている建物はホテルなどの大きな施設のみです。あの突然真っ暗になった道のことを、生涯忘れることはないと思います。
翌30日は、陸前高田市に移動し、陸前高田市のいまと桜ライン311の活動で植樹された桜を岩手県団の泉田さん、橋詰さんと視察しました。陸前高田市は大船渡市以上にひどい状況で、木造建築のあった土地は更地にされ、正しく何もない町になっています。陸前高田市も沿岸部に残っているものは、大きな鉄筋の建物の外装や形だけの学校、山積みにされて撤去されることのない瓦礫のみでした。また、津波の到達点を境にして住居も残っており、町の中でも被害状況がまったく違うことに驚きました。
昼には桜ライン311のメンバーとして活動する、米崎地区仮設住宅の自治会長さんにお話を伺うことができました。自治会長さんは元青年団員でもあります。陸前高田の中でも商店が復活しつつあること、地域にお金を落としていくためにはボランティアに頼ってばかりはいられないことなど、復興を進めるために被災地が次のステップへ移ろうとしていることを実感できました。
その後、桜の木を確認するため、津波の到達点へ向かいました。塩害を受けた土地にあっても、桜は力強く開花しています。お寺の高台から見たその景色は、テレビでよく見た陸前高田の風景であり、報道陣によって定点観測ポイントの杭が打ち立てられていました。そこから写真を撮ると、植樹された桜がファインダーの中に写り込んでくるのです。この一年の青年団の活動が花開いたのかように思え、胸が熱くなりました。
世間はGWで、被災地にボランティアで入る人もいれば、被災地を観光スポットのように扱って立ち入り禁止区域内で記念撮影をしている人たちもいました。震災から1年が過ぎ、被災地にお金を落とそうとメディアでも盛んに言われています。しかし、それは被災地で節度無い行動をしても良いということではないはずです。被災地支援をするのであれば、あの日を忘れず、そこに住む被災者のことを第一に考えていかなくてはと気持ちを新たにしました。
(日青協 早川麻登)
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